(1)守旧派を復活させた「郷愁」
source : 2011.08.19 産経ニュース (ボタンクリックで引用記事が開閉)
「裏切り者!」「ろくでなしめが!」。老人は声を荒らげ、ゴルバチョフ元ソ連大統領(80)の写真に指を突き立てた。
ソ連崩壊を決定づけた1991年の守旧派クーデター事件で、「8人組」と呼ばれた首謀者の1人、バクラーノフ氏(79)だ。軍や安全保障問題を扱う大統領の直属機関、国防会議の第1副議長の地位にあった。
幼少時、独ソ戦でナチス・ドイツが故郷のハルキフ(現ウクライナ北東部)を占領し、ソ連軍が奪還するのを目撃した。「飢えていた私たちに食べ物を与え、服を着せ、教育を施した」とし、今もソ連の独裁者スターリンを敬愛する。さらには、「母はウクライナ、父はロシア出身だ。同じスラブ民族の地域が分離するなど狂気の沙汰だ」とソ連崩壊を非難してやまない。
91年当時、ゴルバチョフ氏が進めるペレストロイカ(改革)の波に乗って、ソ連邦内の共和国では独立機運が高まっていた。軍や国家保安委員会(KGB)などの守旧派と、改革派の板挟みにあったゴルバチョフ氏は、構成共和国に権限を大幅移譲する「新連邦条約」の締結に、「ソ連存続」の望みを賭けた。
しかし、条約を「ソ連崩壊の序曲」とみた守旧派は調印を2日後に控えた同年8月18日、行動に出る。
黒海に面した風光明媚なフォロス(現ウクライナ南部)の大統領別荘。ゴルバチョフ氏が避暑のため家族と滞在していた別荘はその時、KGBによって監視下に置かれ、電話回線も切断されていたといわれる。
「体調が悪いのだ」。夕刻、いきなり訪れた守旧派のボルジン大統領府長官らを前に、セーターを着込んだゴルバチョフ氏は緊張した面持ちだったという。辞任を拒むゴルバチョフ氏をそのまま軟禁した守旧派は翌19日、「健康上の理由で大統領は職務遂行が不可能になった」と発表。ヤナーエフ副大統領の全権掌握という衝撃的ニュースが世界を駆けめぐった。
ところが、守旧派の天下は文字通り3日で終わる。失敗に終わったクーデターの背後に何があったのか。
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1991年8月18日。クリミア半島の先端、フォロスの大統領別荘を訪れたソ連守旧派メンバーの中に、国防会議の第1副議長だったバクラーノフ氏の姿もあった。
同氏の証言によると、ゴルバチョフ・ソ連大統領(当時)は辞任を拒否する一方で、「どうぞ行動しなさい」とクーデターを黙認する発言もしたという。
その後、バクラーノフ氏らはモスクワに取って返し、用意されていた「国家非常事態委員会」の設置を宣言する声明に署名した。
モスクワでは、ロシア共和国の大統領だったエリツィン氏らがロシア最高会議ビルに籠城しクーデターへの徹底抗戦を宣言。数万人の市民が“人間の鎖”で防衛に乗り出していた。約70年に及ぶ全体主義ソ連との決別を熱望する思いが、最高潮に達した瞬間だった。
ビル突入の命令を受けていた特殊部隊「アルファ」のゴンチャロフ副司令官(同)は現場を下見した。ゴンチャロフ氏によると、彼が「作戦を実行すれば罪なき市民に大量の被害が出る」と部下に告げると、「内戦を始める必要はない」と異口同音に声が上がり、部隊は静観を決め込んだ。この“謀反”でクーデターの失敗は決定的になった。
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ゴルバチョフ氏はモスクワに無事帰還するが、クーデターは政権を担う側近らの仕業だったと判明、その権威は地に落ちる。ソ連が世界地図から姿を消すのはわずか4カ月後のことだ。
ソ連崩壊後、エリツィン氏は民主化実現への期待を背に、新生ロシアの初代大統領となった。しかし、その治世は第3部で描いた通り、国民の暮らしを上向かせるどころか、振り回すばかりだった。
通貨ルーブルが暴落した98年から99年にかけ、エリツィン氏は国民の自らへの非難をかわす狙いなどから、4人の首相を更迭。この年の大みそかには自らの大統領辞任を表明し、後継に指名したのがKGB出身で首相を務めていたプーチン氏だった。
エリツィン氏が対峙した守旧派が、ソ連崩壊から約10年をへてクレムリン(大統領府)への足がかりをつかんだことは、歴史の皮肉というほかない。
ただ、90年代の混乱で疲れ果てた国民にとって、「強いロシアの再興」というフレーズを掲げて登場したプーチン氏が頼もしくみえたことも、疑いのない事実といえる。
自由と民主主義は豊かな暮らしをもたらす-という民衆の希望は失望に変わり、貧しくとも秩序と安定があったソ連への「郷愁」が頭をもたげていた時期に当たるからだ。
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冒頭で紹介したバクラーノフ氏はクーデター失敗の直後に逮捕され、1年半を獄中で過ごした後、エリツィン政権が発した恩赦により釈放された。
かつてクーデターを取材したジャーナリスト、ディマルスキ氏(現ロシア新聞コラムニスト)は、スターリンを批判しつつもその信奉者を一掃できなかったフルシチョフを例に挙げ、「クーデターの首謀者を釈放し、自由な活動を許したのは誤りだったかもしれない。ソ連共産党の罪を問う法廷も完結しなかった」とし、“ソ連の亡霊”はいまもロシアを漂っている-との見方を示した。
2000年3月の大統領選で当選を果たしたプーチン氏は、下院の野党を切り崩して総与党化への道を開き、地方首長の解任権も手にするなど、就任1年目から権力確立に向けて地盤を固める。それは、新生ロシアでKGBや軍、内務省出身者ら守旧派が本格的復権を果たす兆しでもあった。
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クーデター発覚から19日で20年。このとき失脚したはずの守旧派はその後、プーチン氏(現首相)の大統領就任(2000年)とともに復権を果たす。第4部では旧ソ連のブレジネフ時代(1964~82年)同様、「停滞の時代」とも指摘され始めた「プーチンの時代」を振り返る。
(2)シロビキ登用が招いた“誤算”
source : 2011.08.22 産経ニュース (ボタンクリックで引用記事が開閉)
「すでに大統領にふさわしい強い指導者がいる」
1999年の大みそか。新生ロシアのエリツィン初代大統領は辞任表明でこう述べ、プーチン氏を首相のまま大統領代行に任命。プーチン氏は即日、エリツィン氏に刑事免責特権を与える大統領令に署名した。
2000年から2期8年に及んだプーチン氏の大統領時代に、「シロビキ」(「武闘派」などを意味するロシア語。情報機関と軍、内務省出身者のことを指す)が中央政官界に占める割合は急増した。同氏がエリツィン氏に身をもって示したのと同様、服従を誓う忠臣を求めた結果といえる。
モスクワにある社会学研究所のクリシタノフスカヤ氏によると、政権発足時に22%だったシロビキは8年間で少なくとも45%まで勢力を広げた。同氏はその半面、プーチン政権の統治には数字には表れない特徴がある、とみる。
「シロビキと、経済閣僚などリベラル派とのバランスを重視し、どちらか一方が力を持つことを決して許さなかった。これがプーチン氏の権力の源泉だ」
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シロビキの勢力拡大を象徴する2つの出来事がある。石油大手ユコスのホドルコフスキー社長(当時)の逮捕(03年)と、ソ連の産業政策を想起させる巨大国策企業「ロステフノロギヤ」創設(07年)だ。
ユコスはプーチン政権の主導で解体され、資産の大半は国営石油企業ロスネフチが接収。04年、同社の取締役会長に大統領府副長官だったセチン氏(現副首相)が就任した。また、軍需産業など400社以上を統合したロステフノロギヤの総裁は創設以来、チェメゾフ氏が務める。
いずれもプーチン氏の盟友でシロビキの代表格だ。
エネルギーや軍需産業など国の根幹を支える経済分野へのシロビキの進出が、04年以降の後期プーチン政権の特徴である。しかし、経済閣僚らが他の業界で大企業の重役を兼務してきたことも事実だ。
たとえば、04年の時点でクドリン財務相はダイヤモンド企業「アルロサ」、シュワロフ大統領補佐官は海運最大手「ソフコムフロート」の取締役を務めている(肩書は当時)。
政府系ロシア新聞のコラムニスト、ディマルスキ氏はこうした実態を「兼職を認める代わりに自らへの忠誠を誓わせるプーチン流の契約だ」と分析、シロビキとリベラル派の双方に利権を分配して“蓄財”を黙認したとの見方を示した。
閣僚を頂点とする腐敗体質はやがて、国の隅々まで行き渡る。交通事故もみ消しや大学入学などの際に金が飛ぶ“賄賂市場”は、05年の推定1290億ルーブル(約3400億円)から拡大し、昨年は同1640億ルーブル(約4320億円)に達したという調査結果もある。
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求心力強化を図った結果、腐敗の拡散を招いたプーチン氏。ジャーナリストのスワニッゼ氏は、「彼にとっても計算外の事態だったのではないか」という。
こうした中でメドベージェフ現大統領は、「競争原理を阻害している」として閣僚の兼職の一部廃止を決定、前出のセチン、クドリン両氏も今年7月までに企業の役職を離れた。
「プーチン氏の意向を受けた決定だ」との見方もあるが、真相は明らかではない。ただ、閣僚らが大統領の決定に不満を抱いていることは容易に想像できる。
次期大統領選まで残り半年余り。腐敗・汚職の拡大という「停滞」の一因を作り出し、肥大化するシロビキをどう処遇するか。だれが次期大統領に就任するとしても、この「プーチン時代の申し子」の扱いこそ、最大の課題の一つとなろう。
(3)窒息するジャーナリズム
source : 2011.08.22 産経ニュース (ボタンクリックで引用記事が開閉)
「ロシアのテレビに風刺という手法がなくなり、テレビ出演を許されない者のブラックリストもできた。情報というジャンルはテレビから消えたに等しい」
かつて有力テレビ局NTVの看板番組で放送作家や司会者を務めたジャーナリスト、シェンデロビッチ氏(53)はこの10年間のテレビ事情をこう総括する。自らが「ブラックリスト」入りし、活動の場をラジオやインターネットに移した氏は「私の発言に触れる人はNTV時代の100分の1に減った」と語る。
現在のロシアでは、圧倒的影響力を持つ3大テレビ局が国もしくは国営企業の傘下にある。これらのニュース番組が最高実力者、プーチン首相(前大統領)や「双頭政権」の相方、メドベージェフ大統領の動向や発言を長々と詳細に伝えない日はない。
「旧ソ連国家保安委員会(KGB)出身のプーチンにとって、マスコミは“奉仕職員”にほかならない。奉仕を拒否する者は殲滅(せんめつ)するとの方針で彼は首尾一貫している」とシェンデロビッチ氏は指摘する。
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プーチン氏は2000年5月の大統領就任直後に報道・言論統制の布石を打った。真っ先に標的としたのが、チェチェン紛争などの報道で高く評価され、人気と影響力で抜き出ていた民間テレビ局NTVだった。
政権側は発足の1カ月後にNTVのオーナーだった富豪のグシンスキー氏を横領容疑などで拘束し、釈放と引き換えにNTVの株式譲渡を要求。局の経営権は国営天然ガス独占企業「ガスプロム」に渡り、01年4月には大衆の抗議運動も押し切って新たな経営陣と編集幹部が送り込まれた。
幹部の説得を受けて局に残った当時の看板キャスター、ミトコワさん(53)は今や報道担当副社長だ。
ミトコワさんは経営権譲渡の原因はグシンスキー氏の債務だったとし、「いかなるマスコミもオーナーの利益を考慮する点で独立とはいえない」「テレビの評価尺度は視聴率であり、その点、NTVはシェアを伸ばしている」と語る。
当時の社員約千人のうちシェンデロビッチ氏ら300人以上が自由な報道を求めて局を去った。しかし、その多くが移籍した局もまた放送免許を剥奪(はくだつ)されるなどし、政権のテレビ包囲網は狭められていった。
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モスクワのキオスク(売店)には10紙以上の新聞が並んでおり、政権を鋭く批判するものもある。国民の大多数が情報源とする主要テレビと違い、新聞には一定の自由がまだあるのだ。
モスクワ大学ジャーナリズム学部のザスルスキー学部長(82)はしかし、「ロシアは事実上、(大部数の)高級紙をもたない数少ない国の一つとなった。このことが政治や国民の知的水準に与える負の影響はあまりに大きい」と嘆く。
ソ連時代、共産党機関紙「プラウダ」や政府機関紙「イズベスチヤ」の部数は公称1千万部。1991年のソ連崩壊前後、言論の自由が花開いて新聞は人気を誇ったが、90年代半ばには部数が急減し、今や最も定評ある有力経済紙コメルサントでも公称13万部だ。モスクワでは昨年だけでリベラル系の2紙が消えた。
政治への関心低下や活字離れに加え、消費財の製造業や中小ビジネスが発達していないことによる広告の絶対的不足が響いている。
また、露ジャーナリスト同盟によれば、この20年間にロシアで殺害された記者は300人以上で、事件の解決率は8%にとどまる。
息苦しさを増すロシアの報道界では、「ジャーナリズムはもはや魅力的な職業ではない」(ミトコワNTV副社長)との言葉に説得力がある。
(4)「上昇への階段」は狭まった
source : 2011.08.23 産経ニュース (ボタンクリックで引用記事が開閉)
モスクワで化学品商社(社員約100人)を営んでいた女性起業家、ヤコブレワさん(39)が突然、麻薬取り締まり当局によって投獄されたのは2006年7月のことだ。
ソ連崩壊後の1993年にこの事業を始めた時、民間ビジネスを取り巻く環境がここまでひどくなるとは思いもしなかった。
「およそ考えられない罪状だった」とヤコブレワさん。約200の会社に卸していた工業溶剤のジエチルエーテルが「麻薬製造に使われうる」とし、劇物・毒物の不法取引罪に問われたのだ。
「溶剤から麻薬は作れないし、事業の許可も持っている」。こう訴えて2008年2月に無罪を勝ち取るまで、拘置所での7カ月間を含む2年以上を費やした。ヤコブレワさんは今、「どこか上の方の出来事」と捉えていた「ユコス事件」が、重大な分水嶺(れい)になっていたのだと考えている。
■国家による乗っ取り
03年、石油最大手「ユコス」の社長だった反政権派の富豪、ホドルコフスキー氏=服役中=が脱税などの容疑で拘束され、同社は国営石油ロスネフチに吸収された。プーチン前大統領(現首相)による政敵の投獄であり、国家による最優良企業の乗っ取り劇だった。
このユコス事件を機に、プーチン前政権の強権統治は一気に加速する。政権内ではリベラル派と勢力を二分していたシロビキ(情報機関と軍、内務省出身者)が台頭。官僚機構の肥大化と腐敗、治安・特務機関の専横が度を増した。
冒頭に紹介した化学品商社事件は、こうした流れの中の小さなエピソードだ。ヤコブレワさんは「(ユコス事件で)治安機関員は他人のビジネスを奪い取って稼ぐことのお墨付きを得た。汚職の蔓延(まんえん)と司法の機能不全が彼らを増長させている」と話す。
この事件は一部で反響を呼んだからヤコブレワさんは救われたものの、ロシアの拘置所には約15万人もの「経済犯」がいるという。
問題は末端の小事業者にまで広がっている。最も卑近なのは、警官や消防官、消費者保護当局などの役人が企業や商店に「地回り」をし、賄賂や「みかじめ料」をせびるケースだ。
小企業家団体の代表を務める食料品店経営者、ジグリスキー氏(42)は「状況は悪くなるばかり。今やまともな人は事業を始めようと思わない」と話す。
■中産階層の流出
ソ連時代、人々の「立身出世」はそのまま共産党や国家機構の階段を上ることを意味した。1991年のソ連崩壊は、経済・社会に混乱をもたらしながらも、官僚機構から独立して自らの道を切り開く可能性をも生み出したはずだった。
しかし、高等経済大学の社会学者、コソワさん(56)は、プーチン前政権の発足した2000年以降、「社会にソ連的な国家依存の性格が戻り、上昇回路が狭まった」と見る。
彼女によれば、「自分の地位が5年前より上がったと思うか」という社会調査で00年以降、「上がった」と答える層の中心は公務員や年金生活者になった。1990年代のように起業や専門職で身を立てることが困難になった一方、石油価格の上昇で公務員給与などが引き上げられたためだ。
「90年代には優秀な学生が起業家や外国企業を目指したが、今は皆が国家公務員になりたがる」とコソワさん。中央・地方の政権幹部の子弟が大企業の要職に就くケースも目立ち、「コネ社会」化も進んでいる。
週刊誌「新時代」によれば、この3年間でロシアからは125万人が流出し、その中心は実業家など中産階層の人々という。この国では今、ロシア革命(1917年)後の内戦期に迫る規模の国外脱出の波が起きている。
(5) チェチェン復興 危うい安定
source : 2011.08.24 産経ニュース (ボタンクリックで引用記事が開閉)
ロシアからの独立をめぐって2度も戦場となった南部のチェチェン共和国(人口約126万人)に、もはや戦禍の跡はなかった。プーチン前大統領(現首相)から強権統治を委ねられたカディロフ首長(34)の下で、めざましく復興が進んでいるのだ。
首都グロズヌイ市内には色とりどりの新築アパートが立ち並び、ショッピングセンターや「欧州で最大」とされるモスク(イスラム教礼拝所)も完成。「グロズヌイ・シティ」と称する高層ビル群の建設も進んでいる。戦争後も頻発していたテロや拉致は近年、大幅に減った。
隣接するイングーシ共和国を拠点とする人権活動家、アキエフ氏(41)は「まだ帰還できずにいる難民や、治安当局による人権侵害など問題は多々ある」としながらも、「チェチェン情勢が安定し、好転したのは確かだ」と語る。
1994年からの第1次戦争が96年8月の停戦合意で終結したのもつかの間、ロシアは99年9月に再びチェチェンに侵攻した。この直前にモスクワなどでアパート爆破事件が相次ぎ、それがチェチェン人の仕業とされたのだ。
当時、エリツィン政権下で初めて首相になったばかりのプーチン氏はこの第2次チェチェン戦争を指導することで人気を高め、翌年の大統領選で圧勝。2002年の戦争終結宣言後は、独立派ゲリラ勢力を率いて親露派に寝返ったカディロフ父子=父は04年に爆死=を共和国の政権に据え、巨額の復興資金を投下した。
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だが、チェチェン人が15万人もの犠牲者を出した2度の戦争を忘れたわけではない。
戦争期をグロズヌイで過ごした広告デザイナー、ダダカエフ氏(35)は「とりわけ第2次戦争が凄惨(せいさん)だった。アパート連続爆破が証拠もなくチェチェン人の犯行とされ、政権の大々的な反チェチェン・キャンペーンを背景に攻撃が始まったからだ」と振り返る。
特に苛烈だったのは、ロシア軍や治安機関が一定の地域を封鎖し、ゲリラと疑われる者を連行する「掃除」と呼ばれる作戦だ。これは戦争終結後も長く続き、連れ去られた者の多くが行方不明となったり、死体となって発見されたりした。
「2度の戦争でチェチェン人は消滅の瀬戸際に立たされた。今のロシアとの関係は民族として力を蓄える上で都合がよいのだ」
ダダカエフ氏はこう述べた上で、「帝政ロシアがチェチェンなどカフカス地方を平定した18~19世紀の戦争以来、チェチェン人の歴史はすなわちロシアとの戦いだった。独立を求める気持ちは将来も変わらないだろう」と指摘する。
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ロシアの側でも「チェチェン戦争の前以上に反チェチェン、反カフカス感情が高まっている」(前出のアキエフ氏)という現実がある。戦争後もチェチェンや他の北カフカス地方出身のイスラム過激派によるテロが後を絶たないうえ、同地方出身の労働者が大都市部に流入しロシア人との摩擦が強まっているためだ。
また、復興の進むチェチェンでさえ失業率が42%、イングーシでは53%に上るなど北カフカス地方の経済水準は依然として低い。両共和国では予算の9割がロシア中央からの“補助金”だ。ロシア民族主義派からは「カフカスを食べさせるのはもうたくさんだ」との政権批判も強まっている。
最高実力者のプーチン氏が来年3月の大統領選で返り咲くとの観測も強く、停滞感すら漂い始めた「プーチン時代」。彼を大統領に押し上げた「チェチェン」は、ロシアを揺さぶりかねない最大の不安材料であり続けている。
番外編 マクドナルド社長が語る20年
source : 2011.08.24 産経ニュース (ボタンクリックで引用記事が開閉)
ハンバーガーチェーンのマクドナルドがモスクワに1号店を開いたのは、ソ連崩壊約1年前の1990年1月のことだった。西側の外食文化のシンボルは爆発的なブームとなり、今ではロシア全土に278店舗、毎日95万人以上が訪れる。オープン当時の1号店店長で現在、ロシア・東欧地域の社長を務めるハムザト・ハスブラトフ氏(55)に、ロシアで見続けた「激動の20年」の成果と課題について聞いた。
マクドナルドが進出した90年はソ連の政治、経済が行き詰まり、国内に不安と不満が充満していた時期に当たる。ハスブラトフ氏は「大きなリスクがあったが、私たちは賢明な決断をした。ソ連の当時の状況ではなく、将来性を考えての決断だった」と振り返る。
外食産業の対ソ連投資第1号となったマクドナルドは、首都モスクワ中心部のプーシキン広場近くに最初の店を開いた。初日は開店前に5千人が列を作り、3万人が訪れた。「飲食店の開店初日の訪問客数」で世界一に認定され、ギネスブックにも載った。数年間は朝から晩まで列が絶えなかったという。
市場開放にかじを切り、投資を呼び込まないことには経済低迷から抜け出せない。そう考えたソ連政府は進出を全面支援、マクドナルド側も莫大な投資と困難なリスク管理を強いられた。同社は1号店オープン前の89年、5千万ドルを投じてモスクワ近郊に牛乳やパン、チーズから野菜まで加工できる工場を設立した。安全で質のよい食材を安定供給できる機関がなかったからだ。
ソ連では91年の崩壊後も数年間にわたるハイパーインフレが起き、98年にはルーブルが暴落するなど経済の混乱が続いた。ハスブラトフ氏は同様の事態が起きていたブラジルに飛び、懸命に対応策を学んだという。
2000年代に入り、石油・天然ガス価格の高止まりという追い風もあって、ロシアは順調な経済成長を遂げる。マクドナルドの国内利用者は延べ1億人を超え、2割にすぎなかった国内の食材調達率は8割まで伸び、同社は昨年、加工工場を売却した。
ハスブラトフ氏は、「中小企業がロシアに進出しようと思えば、今でも4、5年はかかる。会社設立には約200件の承認と署名が必要だ」とし、大きな投資を引きつけるには、(1)官僚主義と賄賂の撲滅(2)経済の多様化とさらなる開放、透明性の確保(3)巨大企業による寡占状態の解消-などが不可欠だ、との見方を示した。
中小企業が国内の経済活動に占める割合は10%前後にとどまり、地下資源依存型の経済からも脱却できずにいるロシア。同氏はこうした点を認めつつも、次のように総括した。
「ある経済システムから別のものに移行するのに、20年間という期間は短すぎる。法整備という面からみれば、現状はそう悪いものではない。問題はそれをどう運用するかだ」
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