「靖国ではなく、南京に行くべき」中国が仕掛ける反日歴史工作「南京事件」を考える(前篇)
source : 2013.12.27 WEDGE Infinity 有本 香 (ボタンクリックで引用記事が開閉)
平成25年も押し詰まった昨日(12/26)、安倍首相が靖国神社を参拝した。第一次政権時の「痛恨の極み」から7年、内外のあらゆる政治的要素を勘案したうえでの参拝だったと思われる。予想どおり、中国、韓国からは激しい反発の声明が出された。
中国の王毅外相は、日本の木寺昌人駐中国大使を呼び、「国際正義への公然たる挑発だ。(日本側が緊張関係を激化させるなら)中国側も最後まで相手をする」という、物々しい表現とともに、対抗措置もにおわせた。が、むしろ筆者が注目したのは、その後の会見で出た秦剛報道局長の次の発言である。
「安倍首相がアジアの隣国との関係改善を願うなら、靖国神社ではなく、南京大虐殺記念館に行くべきだ。歴史を直視する勇気がなく、戦後の国際秩序に公然と挑戦しておいて、自由や民主、世界平和と繁栄への責任を語る資格があるのか」
靖国神社の「カウンター」として、中国側は「南京虐殺記念館」をもち出してきた。折しも師走12月、76年前(1937年)に南京陥落があった時期でもある。秦剛報道局長の発言に“触発”されて勇気を奮うわけではないが、せっかくの機会なので、本稿では、いわゆる「南京事件」にまつわる歴史の「事実」をいま一度、直視し論考してみようと思う。さらに、中国と韓国が連携して現在、北米で進めている「反日歴史工作」、とくに新手の「南京虐殺工作」との関連で今般の総理の靖国参拝を考えてみたい。
果たして南京で「虐殺」はあったのか?
よく知る読者の方々にとっては退屈な復習となろうが、まずは「南京事件」に関して、事実とともにポイントとなるべき点を挙げていくこととする。
中国側はくだんの記念館で、「日本軍は南京入城後、2カ月にわたり、30万もの人が虐殺した」と宣伝している。一方、東京裁判の判決文では、「日本軍が占領してから最初の6週間に南京とその周辺で殺害された一般人と捕虜の総数は20万以上」とした。
しかし、この南京での「大虐殺」は、現場をしかと見た人、つまり証言の信憑性が検証され、正当性が裏付けられた目撃者というものが一人も存在しない。これは、「南京」を論じる際の最も重要なポイントで、はじめに押さえておく必要がある。
2カ月にわたって何十万もの人が虐殺されたという「世紀の大事件」であるにもかかわらず目撃者ゼロ。こんなことがあり得るのだろうか。しかも不思議なことに、この目撃者ゼロという重大なことに、日本のマスメディアは触れようとしない。そのためか、南京で虐殺はあったものと頭から信じ込んでしまっている日本人が少なくない。
思えば、筆者が小学生だった70年代の日中国交樹立から、80年代の日中友好ムード最高潮の時期には、朝日新聞を中心にした日本メディア、そこに登場する「進歩的文化人」たち、さらには学校の先生らまでもが揃って、「南京で日本軍は何十万もの中国人を殺した。だから、中国に対してどんなに謝っても足らない。日中友好のため日本は真摯に謝罪し続けなければならない」と盛んに言っていた。当時の言説の影響がいまも抜けない日本人がいまの50代以上には多い。
とはいえ近年は、多くの日本のメディアが、「南京事件については諸説ある」とは書くようになった。しかし、この「諸説」とは、殺された人数について見解が分かれるという意味だ。30万人が殺されたという中国の説、東京裁判での20万以上説、もっと少なく10万人という説、4万人説などがあるのだが、すべて「虐殺はあった」という前提に立った説ばかりである。
一方で、「南京事件はなかった」という完全否定説も以前からある。が、これまた日本のメディアは触れたがらない。まさに、メディアにとって、南京虐殺の否定は戦後最大の「タブー」であったようで、否定説を報道する「自由」や、この説を国民が「知る権利」をメディア自身が規制し続けてきたといって過言でない。規制だけではなく、このタブーに触れた政治家はメディアの袋叩きに遭い失脚させられてもきた。
「虐殺があったことにしよう」という蒋介石の指示
南京事件の目撃者ゼロということは、虐殺はあったのか、という疑問の材料となる一方、「虐殺はなかった」と主張する側にとって痛いことでもある。目撃者がいないからといって、「なかった」ことの証明とはならない。俗に、「悪魔の証明」などといわれるが、ある出来事が「なかった、起きていなかった」と証明することは不可能に近い。
1937年12月1日から38年10月24日まで、南京戦を含むこの約一年の間に、国民党中央宣伝部国際宣伝処(中華民国政府の対外宣伝機関)は、約300回もの記者会見を開いた。毎日のように会見があったことになるが、参加者は平均50名、うち外国人記者、外国駐在公館職員は平均35名であったという。
ところが、この300回もの記者会見において、ただの一度も、「日本軍が南京で市民を虐殺した」とか「捕虜の不法殺害を行なった」との非難がされていない。戦時中とはいえ、もし一般人に対する大規模な「虐殺」や強姦が連日起っていたら、ただの一度も記者会見で話さないなどということがあるだろうか?
このことからも、虐殺はなかったのでは、との疑問が沸くが、この疑問を氷解させる史料が近年、日本の研究者、亜細亜大学教授の東中野修道氏によって見つけ出された。
南京事件の核心に迫ると思しき衝撃的な史料。そのひとつが、蒋介石の「指示」を表わす文書である。蒋介石は、日本軍が南京に入城する直前、城内から逃れたが、そのときに、「ここで日本軍による大虐殺があったことにしよう」との指示があったという内容だ。
これらの事柄は、東中野氏が、台北の国民党党史舘で発見した極秘文書『中央宣伝部国際宣伝処工作概要1938年~1941年』に残されていると、氏の著書、『南京事件-国民党秘密文書から読み解く』(草思社)に記されている。
実は、この文書発見以前から、南京陥落の後、120名近くの記者が日本軍とともに南京に入城したにもかかわらず、朝日をはじめとする当時の新聞報道、記者らの証言のなかで、虐殺事件の片鱗すら語られていないのはおかしい、事件はなかったのではないか、という主張はされていた。この主張が、中国側の資料からも裏付けられたという点は大きいのではないか。
市民の姿をした兵士を撃ったことは「虐殺」ではない
筆者は長らく、南京事件について個人的に興味を抱いてきた。それは、1997年、故アイリス・チャンという中国系女性が著した『ザ・レイプ・オブ・ナンキン』という本が、全米で大ベストセラーとなったことをきっかけとした興味であり、数年前にはカリフォルニアで生前のチャンに近い人物に会い、彼女の死の直前の様子を取材したこともある。
その興味と経験が昨年、とある仕事に結びついた。昨年2月、名古屋の河村たかし市長が、姉妹都市である南京市の使節団との会談の席で、「(いわゆる)南京事件はなかったのではないか」と発言して物議を醸した件にまつわる仕事であった。騒ぎが一段落した夏頃から数回にわたって河村氏から話を聞き、「騒動」の経緯をまとめる機会を得たのだ。
このときの「河村南京発言」の正確な内容は、「事件(虐殺)はなかったのではないか。通常の戦闘はあったが」である。虐殺ではなく通常の戦闘行為――これも南京事件を考える際のもう一つの重要なポイントである。
実は河村氏、例の発言以前、名古屋市長になる前の衆議院議員時代から「南京」について、ひとかたならぬ思い入れをもっていた人だということはあまり知られてない。歴史家から話を聞くだけではなく、元日本兵を訪ねての聞き取り調査まで独自に行なって、野党議員だった小泉政権当時、独自の調査の結果を踏まえ、「南京事件」に関する政府見解を具体的に質す、質問主意書を出してもいる。
市長となった後のあの「南京発言」は、思いつきや、口が滑った類のことではなく、「南京と姉妹都市でもある名古屋の市長になったら、南京事件のことはやらにゃいかんと思っていた」というくらい、明確な意図、意思をもってした発言であったのだ。その河村氏が、南京入城当時を知る手掛かりとして注目したものに、南京にいた元日本兵の日記がある。その一つ、梶谷元軍曹という人の日記には南京入城式の直後の様子が次のように書かれてある。
「(一時間あまりで)敗残兵二千名の射殺されたり」「誠に此の世の地獄」。2000名という人数は大きい。この世の地獄と見えたのも無理もない。が、撃ち殺されたのが、「敗残兵」であったなら、それは戦闘行為であって、一般人の「虐殺」にはならない。
「便衣兵」という中国独特の戦法
国際紛争を解決する手段の一つである戦争には厳然としたルールがある。戦争とは、兵士と兵士の殺し合いであって、民間人を殺してはならない。これが戦争の最も基本的なルール、犯せば罪に問われる。だから、兵士はきちんと制服を身につけるなどして、遠くからでも兵士とわかるようにしなければならず、市民に化けて攻撃するというのは重大な「ルール違反」なのだ。このことは日中戦争当時から同じである。
日記には、2000名射殺の際、「十名ほど逃走せり」とも書かれてあった。この逃走者らの話に、のちに尾ひれが付いて、「大虐殺」となった可能性が否定できないが、そうであれば、なぜ、「敗残兵」の射殺が「虐殺」となったか、が問題である。考えられるのは、その敗残兵らが民間人の服装をしていたということである。
今日、このことは多くの識者が指摘しているが、当時の中国戦線では、「便衣兵」と呼ばれる、通常の服装をした兵士が数多くいた。これに関する元日本兵の証言も多く、たとえば掃討戦の最中、一般市民の姿をした人を見かけたので声をかけると撃ってきたので反撃した、というようなものだ。南京を含む当時の中国では、ゲリラ化した国民党の兵士がそこここにいて、「兵士」と「民間人」の境がとても曖昧になっていた。このことが、「大虐殺」話に結びついた、あるいは結びつけ易かったということは十分考えられる。
「南京事件」のネタ元は国民党宣伝部の顧問
では、そもそも、「南京で大虐殺があった」と最初に世界に向け発信したのは誰か、が問題だが、それはティンパーリという英国人の“記者”である。彼が編集した『戦争とは何か』という本のなかに、「南京在住のある欧米人」の原稿が掲載されていて、これが南京虐殺のネタ元となったのである。
ただし、この原稿は、いまでいう匿名の密告投稿のようなものに過ぎない。虐殺現場の目撃証言も、命からがら逃げ出した人の話もないにもかかわらず、ニューヨークタイムズ紙でとりあげられ、ほかのマスコミも連鎖的に騒いだために、いつの間にか「歴史的事実」のようになってしまった。
近年になって、このネタ元とされた原稿を書いた「南京在住のある欧米人」は、ベイツというアメリカ人宣教師だったと判明しているが、ベイツは、国民党中央宣伝部の顧問をしていた人物であった。要するに、南京政府の関係者である。つまり、「日本軍が民間人を大勢虐殺した」という「匿名の密告」は南京政府側の人間が流した情報、南京政府のプロパガンダだったという可能性が否定できないのだ。
余談だが、この国民党中央宣伝部にはかつて毛沢東も在籍していた。毛は、のちに国民党と敵対した共産党の指導者だが、それ以前、国民党中央宣伝部でプロパガンダの手法を学んだといわれている。
今日は多くの日本人が、中国政府のいう「歴史」の多くが史実に基づくヒストリーではなく、彼らの政治的意図に沿ったプロパガンダであることに気づいてきたが、共産党独特の手法と思われがちなこの中国式プロパガンダの基礎の一端が、国民党にあったというのもまた興味深い話である。
戦争にウソはつきものだ。それは、日中戦争に遡るまでもなく、近年の「イラク開戦」のいきさつ一つを見ても明らかなことである。戦時だけではない。常時でも、国際政治にウソはつきもの。当然、日中戦争や先の大戦時にウソの情報を流していたのは日本の大本営だけではない。そう思って日中戦争、先の大戦を見直すと俄然、すべての様相が違って見えてくるはずである。
ところで、当時の南京を「知る者」として、ティンパーリはじめ、何人かの欧米人が挙がっているわけだが、中国は近年、そうした欧米人の一人を顕彰する銅像を建てる活動を米国で展開している。ほかに、米国の高校生らに、南京虐殺にまつわる中国のプロパガンダ満載のテキストで学ばせる工作をも展開していて、この影響は深刻だ。その実態については次稿でくわしく述べることとしたい。
高校のテキストでも強調される南京大虐殺「米国人洗脳」工作の実態 「南京事件」(後篇)
source : 2014.02.10 WEDGE Infinity 有本 香 (ボタンクリックで引用記事が開閉)
12月末に拙稿前篇が掲載された後も、「歴史認識」をネタとした中国・韓国の日本攻撃は沈静化するどころか、烈しさを増す一方である。その「戦場」は東アジアから欧米、世界50カ国へと広がり、とうとう国連の安全保障理事会の場にまで及んだ。中国の国連大使は、わが国総理を呼び捨てにして批判するという非礼の挙に出、この非難攻勢に、あろうことか北朝鮮の大使までもが加勢する事態となっている。
このとき中国は、安倍総理の靖国参拝について、「反ファシズム戦争の勝利と、(第二次大戦の)戦後の国際秩序に対する挑戦だ」と非難したが、「反ファシズム戦争の勝利」とは、戦勝国、とくに米国が、第二次世界大戦の正当性をアピールする際に使う言葉である。
「人類の敵であるファシストを倒し、ファシズムを終わらせるための正義の戦い」。この言葉によって、米国が犯した人類史上最悪の「人道に対する罪」といっていい広島、長崎への原爆投下も、それに次ぐ悪行と思しき東京、大阪など日本の都市への無差別爆撃も、すべて正当化されているのである。
中韓の「歴史カードによる日本叩き」
古今東西を問わず、またわれわれの好むと好まざるとにかかわらず、歴史は勝者によって作られる。まさに勝てば官軍という理屈だ。中国・韓国が、日本への「歴史攻撃」――史実をねじ曲げてまで行なう悪質な攻撃――を止めない最大の理由はここにある。
共産党が統治する現在の中国、大韓民国という二国はいずれも、第二次大戦時にはこの世に存在しなかった国家である。当然、日本は中華人民共和国とも、韓国とも戦った事実はない。それどころか当時、朝鮮半島は日本が統治しており、朝鮮の人々は日本国民として連合国と戦った同胞であった。ゆえに靖国神社には、戦後「戦犯」とされた人を含む多くの朝鮮半島出身者が祀られている。
ところが、韓国側のいう「正しい歴史認識」のなかでこの基本的事実は無視され、近年はより激しく歪められてもいる。一方、日本においても「朝鮮半島の人々はかつて同胞だった」という事実を忘れてか知らずか、低次元な「嫌韓」にひたすら励む人々もいる。日韓両国において、正しい歴史認識どころか、歴史認識の倒錯が起きていることは両国の国民にとって大きな不幸といえよう。
中国、韓国の二国は、戦後の「官軍」のご都合により、「戦勝国」の一員であるかのような立場を与えられた。そのため戦後70年近くたつ今日でも、日本をやり込めたいとなればいつでも、「勝ち組仲間」の米国、欧州の国々に同調を呼びかけ、「歴史カード」で目一杯、日本を叩きのめすことができると思っている。これまさに戦後レジームの一端である。
奇しくも今般はその「歴史カードによる日本叩き」を、まさに「第二次大戦の戦勝国クラブ」ともいうべき国連安保理の場で行なって見せた。具体的言及こそなかったものの、南京事件もまた、こうした「勝者米国の正義」「戦勝国史観」と深く関わる件である。
米国の高校生への「反日教育」のテキスト
前篇で、いわゆる「南京事件」のポイントを整理した。これらのポイントは同時に、「南京事件」に関する疑問点でもある。昨年2月、「(いわゆる)南京事件はなかったのではないか。通常の戦闘行為はあったが」と発言した名古屋の河村市長は、発言の前も後も一貫して、「南京の件について中国側とオープンに議論したい。この問題が、いつまでも日中間に刺さった『トゲ』になっていることは日中友好のためによろしくない」と主張したが、筆者もまったく同じ思いである。
私たちはつねに、過去の事実、史実に対し誠実に向き合うべきである。76年前の南京で、通常の戦闘行為や、一部の不届き者による暴挙ではなく、日本軍による「虐殺」が行われたという動かしがたい証拠があるのなら、ぜひとも知りたいと思うし、そのうえで、現代の日本国民としての処し方を考えたいとも思う。しかし、本件はわずか70数年前のことにしては、不明瞭、不可解な点が多過ぎる。不明瞭・不可解な点が多いゆえに、南京事件は容易に「膨張」させられてしまう。日本にとって忌々しき最近の一例を挙げよう。
河村たかし氏は、名古屋市長就任後にロサンゼルスの一部の高校で、「南京虐殺」の記述を含む歴史副読本が使われていることを偶然知ったという。筆者の手元にはそのコピーがあるが、次のように記述されている。
「南京大虐殺」――南京の市民が、戦争の激情と人種的優越感に煽られた日本軍の犠牲となった事件――は、戦争の恐怖を実証した出来事である。2カ月の間に、日本兵は7000人の女性を強姦し、数十万人の非武装の兵士や民間人を殺害し、南京市内の住宅の3分の1を焼き払った。40万人の中国人が、日本兵の銃剣の練習台にされたり、機関銃で撃たれて穴に落とされたりして命を落とした。(Traditions & Encounters --- A Global perspective on the past)
くだんの「南京大虐殺記念館」で、30万と宣伝している犠牲者が、このテキストのなかでは40万人に“増えて”いる。虐殺されたという人数が増えているだけではなく、7000人もの女性を強姦したことにもなっている。河村氏はこれを「どえりゃあこと」といい、「米国における教科書問題」と表現した。
この40万人説のネタ元は何か、といえば、本稿前篇で触れた故・アイリス・チャン著のベストセラー本『ザ・レイプ・オブ・ナンキン』と思われる。
「反日教育」テキストのネタ元は?
ここで、アイリス・チャンについても触れておこう。中国系アメリカ人女性のチャンは、20代で作家デビューした後、爆発的ヒットとなる『ザ・レイプ・オブ・ナンキン』を著した。ヒット後は、「歴史家」「活動家」として一躍メディアの寵児となり、90年代の終わりには、駐米日本大使とテレビ番組で歴史討論を繰り広げてもいる。
昨今、中国が世界50カ国で日本のネガティブ・キャンペーンを繰り広げるなか、現地駐在の日本大使や領事が反論、応戦しているが、この種の活動は90年代にも行われていたのである。折しも、当時、歴史問題を最強の「対日カード」と位置づけていた国家主席・江沢民の来日とも呼応して、このときのチャンは、大使に「日本は中国に酷いことをしたにもかかわらず謝罪をしていない」と迫った。大使は過去の日本の「お詫び」の例を挙げ、真摯な反論に努めていたが、テレビを見ていた米国民には「悪行を働きながら謝罪のたりない日本」との印象だけが残ったことだろう。
このようにスポットライトを浴びていたチャンだったが、次第に彼女の本の内容の信憑性が疑われ始める。抗議等が相次ぎ、それが原因か否かは不明だが、彼女は精神を病み、後にピストル自殺をした。死後、中国系や他の機関との関係も取り沙汰されたが、それでも、『ザ・レイプ・オブ・ナンキン』がアメリカ世論に与えた影響は大きかった。
日本との戦争について、パールハーバー以外には多くを知らなかった何百万もの米国人に、旧日本軍が「いかに悪逆非道だったか」を知らしめ、それを懲らしめた米国はやはり正しかったのだと思わせた。チャンの死すらも世間から忘れられた今となって、彼女の著書のなかの「40万人説」が形を変えて蘇り、独り歩きして米国の学校現場にばら撒かれている。これは日本にとって実にゆゆしき事態である。
米国で展開されている工作は「慰安婦像」だけではない
副読本はカリフォルニア州内の高校で配布、使用された。採択された背景の詳細は取材中だが、州内の成績優秀な生徒の通う高校群にて使用されたことは確かである。
副読本の著者は中国系ではない。この著者は、過去にべつの歴史テキストを執筆した際、その内容についてユダヤ系団体からクレームを受けたこともあると聞くが、著者がどうであれ、日本にとって頭の痛い点は、この副読本によって、前途有望な米国の若者たちに、「日本は残虐なことをした」「日本人は残虐」ということが、その根拠も薄弱なまま刷り込まれてしまったことにある。現に、河村たかし市長は、この副読本で学んだという日系人の若者から、「日本は中国で残虐なことをしたのでしょう?」という質問を受けたという。
いま盛んに報じられる世界各地や国連でのやり合いや、韓国勢による「従軍慰安婦像」の建造はむろん大問題だが、何年も前から、私たちに見えないところで着々とこうした「米国人洗脳」工作が進められてきたことのほうを筆者はむしろ深刻に捉えている。
ところで、「慰安婦」については日韓条約をもって解決済みというのが日本政府の基本的スタンスである。とはいえ90年代には、不適切な報道を絡めた日本の大手メディアと韓国側との連携による激しい攻勢に抗しきれず、「河野談話」が発せられ、「アジア女性基金(略称)」なる民間団体を通じた個人への「償い」を行なう羽目に陥り、国内外に取り返しのつかない誤ったメッセージを発信してしまった。
日本はこの轍を2度と踏んではならない。それは単に日本のためだけでなく、日韓条約締結によってつくられた戦後秩序、国際秩序を自ら壊す行為につながるからだ。
「南京事件」の責任を引き受けて逝った「戦犯」
南京事件に話を戻そう。戦後行われた「極東軍事裁判」において、南京虐殺の首謀者だとされ絞首刑に処せられた、松井石根大将(1878~1948)という人がいる。1937年、日中戦争が起こると、松井大将は、すでに予備役となっていたにもかかわらず、60歳を前にして現役に復帰させられ、その2カ月後、破竹の勢いで首都南京を攻略し入城、国民的スターとなった人物である。
松井大将は、いわゆる「大アジア主義」の支持者であり、今でいう「親中派」であった。ただし、当時の「親中派」とは、中国には一切もの言わない今日の親中派とはかなり違う存在である。
松井には、「親中派」らしいエピソードがいくつもある。南京戦に向かう途中、日本軍の戦死体が埋葬され、戦場清掃を済ませている様子を見て参謀を呼びつけ、「日本兵の死体だけを片付け、支那兵の戦死体を放置したままにするとは何ごとか」と叱りつけたという話。さらに、南京入城の翌年には復員し、熱海で隠遁生活に入ったが、このとき、日支双方の犠牲兵をどうやって弔うべきかを知人に相談し、結局、「日支双方の兵士の血が沁み込んでいる」上海の土を取り寄せて観音像を作り、両国の犠牲兵を合祀し、肺炎を患っていた身で毎朝自ら観音経をあげていたというエピソードもある。
中国人をそのように身近に思い、軍規にもとくに厳しかったといわれる松井大将が、南京で数十万の一般の中国人を虐殺したというのもなかなか信じ難い話であるのだが、日本が戦争に敗れた後、松井大将は、極東国際軍事裁判において大罪人とされた。
この南京虐殺と松井について、当時の中華民国のトップだった蒋介石がまったく反対の2つのことを言い残している。
1970年代に、日本の新聞は、蒋介石が自身の回顧録のなかで南京事件について次のように書き残したと報じた。南京陥落からひと月以上後の1938年1月22日付の日記で、「倭寇(日本軍)は南京であくなき惨殺と姦淫をくり広げている(中略)。いわゆる南京大虐殺である。戦闘員・非戦闘員、老幼男女を問わない大量虐殺は2カ月に及んだ。犠牲者は30万人とも40万人ともいわれ……」と記したというのである。
ところが、1966年、日本の新聞記者ら5人が岸信介の名代として台湾を訪問した際、蒋介石は、松井石根の名前を聞くと顔色を変え、「南京に大虐殺などありはしない。松井閣下には申し訳ないことをした」と言ったとも伝えられている。
これらのことと、拙稿前篇で紹介した国民党の史料等を合わせてみると、南京虐殺そのものが虚構と受け取れなくもない。が、仮に松井大将が冤罪であったとしたら、これは日本、中国というレベルでなく、世界中の歴史認識をひっくり返すほどのこととなり得る。
むろん、当時の日本軍兵士のなかに不適切な行為に及んだ者もいた。捕虜への虐待、市民への暴行、殺害、掠奪もあったが、その種の行為に及んだ者の多くは軍法会議にかけられ処分された。こうした一部の暴挙を思い、松井は黙って刑に処せられたとの話も残る。
戦勝国が主導する法廷で裁かれ、虐殺を指揮した人物との「汚名」を着て絞首刑台に上がる際、松井は、東条英機ら他の戦犯と共に、「天皇陛下と大日本帝国万歳」と三唱して逝った。この事実すら、いまの日本人のなかに知る人は少ない。
歴史認識とは何か?
戦争とは、最低でも2国以上が関わって起こる事態である。戦後になって、「歴史」としてそれを振り返るとき、勝者は「栄光」と認識し、敗者は「屈辱」と受け取る。つまり、両者の歴史認識が自然に一致することはほとんどあり得ず、仮にぴたりと一致しているとすれば、それは勝者の側の歴史認識が敗者を圧倒したからに過ぎない。
戦後70年がたとうとするいま、私たちに求められているのは、歴史の事実に誠実に向き合う姿勢である。日本政府が、急カーブを切るようにこれまでの歴史認識を変えることはむずかしいが、国民レベルにおいて、「実際に何があったのか」を知る姿勢をもつことはひじょうに重要である。その動きに対し、あらぬところから、「(歴史)修正主義者(revisionist)」なるレッテルを貼られることがあったとしても、私たちには事実を知る権利が厳然とある。こう考える日本国民は近年増えてきている。
一昨年2月の「南京発言」後、大バッシングに晒されたとはいえ、河村たかし名古屋市長が政治生命を失うこともなく、その後、再選まで果たしたこともその変化の表れだろう。1994年、ときの法務大臣、故・永野茂門氏が、「南京大虐殺はでっち上げだと思う」と発言した際に、マスメディアから人格攻撃まで含む総攻撃を受け、就任からわずか11日で辞任したときのことを思えば、まさに隔世の感がある。
これは、河村氏がメディアと周囲からの「発言撤回圧力」に屈しなかった結果ではあるが、18年前と比べ、メディアの責め口調がトーンダウンしていたのもまた明らかだった。理由は、この18年で日本国民の心理が大きく変化したためであろう。河村氏の「南京発言」後、名古屋市役所には市民からの電話、FAX等が多く寄せられたが、その約9割は「河村がんばれ」であった。こうした日本国民の心理的変化を生んだおもな要因は、近年、中国、韓国が執拗かつ露骨に行なう、史実や現状を無視した「日本叩き」、そして領土の侵犯にある。
長きにわたって日本の世論に対し効果絶大だった中国の「反日カード」は、いまやその効力を失いつつある。それでも中国は韓国と連携し、戦勝国が主導する国際世論に訴える攻勢を強めており、それは従来、自国民の不満をそらす手段ともなってきたが、果たしてその効力もいつまで続くのか。依然、敗戦国という厳しい立場に置かれている日本ではあるが、世界のパワーバランスも変わりつつあるなかで、今後、「事実」に基づく適切な反論をしていくために、国内の体制をまず整えることが求められている。
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